ブログ トドの昼寝

札幌爺のたわごと

新しい戦前

タモリが現在の状況を「新しい戦前の始まり」と表現したという。ウクライナへのプーチン侵略戦争を受けて世界は再び大きな分断に入ったが、なんとわれらが首相は新たな専制主義陣営の強権的あり方に対して国民に「国を守る気概を持て!」と語り「防衛費を43兆円にまで拡大」と言い放つ始末。防衛のために国家予算の3分の1近い額をつぎ込むというのはこれは明らかに軍事費増であり軍拡への道を進むということだ。日本の戦前(第二次世界大戦前)をみるまでもなくこの途は後戻りが効かないのだ。それをまた始めようと言う神経が分からない。日本の1度目もかなり悲喜劇的だったが、2度目は完全に滑稽としか言いようがない。どこにそこまでの余力があるのか?手遅れになる前に日本の立ち位置や飯の食い方を根本的に再検討しなければ、日本列島全部青山となるやも。

戦車ルクレール

フランス陸軍の最上位戦車といえばルクレールだ。ドイツとアメリカが世界最強の戦車をウクライナに提供することが話題になっているが、フランスではこのルクレールの供出を政府がためらっているのではないかというニュースが流れている。
ここでは少しずれてフランス語としてのLeclercを少し考察してみよう。私の若い友人に渋沢・クローデル賞を受賞したLucien Clercq というのがいるのだが、この Clercq 、発音はクレルクである。Leclercもルクレルクの発音もありとなっている。簡単な調べだけで顰蹙を買いそうだが、とりあえずラルースの 「フランス家族名・名前語源辞典」をひいてみた。Clerc は広く使われている苗字で、それに定冠詞のついた Leclerc も多いとある。Clercq と Leclercq もありだが多くはないとされている。でふと疑問に思ったのが英語の clerk の綴りである。なぜ <e>なのか、答えは単純である。手元にある Oxford reference ENGLISH の語源で古英語および古仏語の clerc との記述があった。そうノルマンコンケストあるいはそれ以前に遡る古い言葉だったのだ。ともかく叙階前の神学生や俗世との関係にもっぱら携わる識字層の人間のことなのだ。こうしてみるとノルマンディー上陸作戦後、自由フランス軍を先頭に立って率いたルクレール将軍の顔も違って見える、などということはないだろう。

春のフランス語句会

今頃?と言われてもなんとも言い訳しがたいことだが、プーチンの戦争が始まったからだ、と言えば許されるような気もする。まさにその戦争に影響された句もあれば、「核兵器の使用も当然の権利である。これは脅しではない」という発言に触発された句も出てきた。季節のずれをお詫びしながら、ご批評お待ちします。

 

関釜連絡船

 朝鮮半島を日本が植民地支配していたとき、半島との一番のパイプは関釜連絡船であった。いまでは博多と釜山がメインであるが、関門連絡船の時代では、下関が玄関口だったのだ。五木寛之は初期のエッセイでこう記している。

 生まれたのは福岡県である。生後、間もなく両親におぶわれ、関釜連絡船で玄界灘をこえた。関釜連絡船。帝国主義日本の大陸へのかけ橋であった。関は下関、釜は韓国釜山。下関の長い長い桟橋に私服や憲兵の目が光っていたのを憶えている世代も少なくあるまい。/興安丸。そして崑崙丸。小学校の夏休みには、何度となく特急亜細亜号で半島を駆け、興安丸で内地を訪れたものだった。/敗戦からかなりたって、引揚げてきた。大人たちは流浪の日々を、一つの呪文にすがって生きていた。/「内地に帰りさえすればーー」/(中略)/だが、人間が地獄に生きるためには、何が必要か。食物にあらず、水にあらず、勿論それは希望の一語につきる。/〈絶望の虚妄なること希望に同じ〉というあの魯迅の痛烈な言葉は、希望を否定するものではない。むしろ、希望にすがる人間の弱さを温かい悲しみでみつめている語録だろう。/流浪の民は、人工の希望の星を必要とした。すべての希望が崩れ去った荒野に、虚妄と知っていながら、一つの希望をかかげることが必要だった。それなくしては生きることができない状況だったのだ。そして内地とは、彼らの人工の希望であり、未来へのシンボルであったにちがいない。いま、三十の半ばを越えて、私はようやくそれを理解し得たように思う。/私たちのリバティ型輸送船が仁川から博多港外に着いたとき、仲間は半数以下にへっていた。夜だった。/「あれが博多の灯だ」/と、父親が言って絶句した。私は弟の手をひき、親父は妹を背負っていた。/上陸の前に、コレラ患者が出たという知らせがあった。私たちの船は、次々に桟橋に着く航続船を横目で眺めながら、港外に赤旗を立てて停泊した。/(中略)/博多は、私にとってそのような町である。大げさに言えば、末期の目で眺めた希望の町であり、絶望の彼岸でもあった。                                       「博多の女」pp.198-200 

 

下関港長桟橋                    釜山港桟橋

特急亜細亜号こそは満鉄が誇る列車であり、第二次世界大戦開戦前に坂本龍馬の大甥である満鉄職員坂本直道がパリで発行した雑誌『日仏文化』の広告欄にほぼ毎号紹介されていた。この雑誌の編集長を務めたのが松尾邦之助であった。ちなみに邦之助の弟、正路は小樽高商そして小樽商科大学でフランス語の教授だった。

 だが、宗主国の立場だけから見ては真実は見えてこない。

 「ぼぐが渡ったときはまだ少年だったし、それにもう数ヶ月後には戦争がおわるというときだったから、そんなでなかったですが、連絡船ではみんなずいぶんひどい目にあったそうですね」

 「思想調査だろう。ひどい目もなにも、思いだすことさえいやだが、しかし反面教師というもので、それで目ざめさせられたということもたくさんあった。おれなどずっと日本で育ったせいかのんきなもので、あの戦争の当時でもいろんな形で独立運動や革命運動があるということ、あるらしいといったほうがいいかな、それを教えられたのも思想調査の移動刑事によってだった」

 「だから、玄海灘を二、三度往復すれば、それだけでもう、自分が朝鮮人であることを目ざめさせられた、いやでも目ざめさせられずにいなかったと、、、」              金達寿小説集「対馬まで」

 

朝鮮人と分かるだけで、移動刑事のしつこくて荒々しいリンチに等しい扱いを受けるおそれがあり、次回顔を合わせようものならいきなり殴りとばされたという。桟橋には憲兵特高、船内には移動刑事。朝鮮人にとっては囚人船に等しかった。

 当時の勢いは見る影もない下関だが、広島宇品が陸軍兵站の玄関口だった時代、民間の半島そして満州への玄関だったのが下関であった。そしてこの海峡をこえるとき、支配者と被支配者を絶望的に分け隔てた暴力を伴った差別という非道の壁が現前したのである。小説『パチンコ』がアップルtvでシリーズ化されているが、この暴力もきっちりと描かれている。それにしても日本国内の現代史認識と海外のそれとの乖離がひどくなりすぎてはいないだろうか。ご存知のとおり、下関は安倍元首相の地元である。

 

 

 

プーチンの戦争

プーチンウクライナ侵攻で寝覚めの良くない日が続いている。朝早く目が覚めたので、講談社版の五木寛之エッセイ全集第三巻を開いた。半世紀前ソ連邦が未来の希望の地位から転げ落ち始めるころ五木はこう言っている。

  昨年、沖縄に旅行した時、沖縄本島の人びとが、日本本土に対して強い
 対立意識とコンプレックスを持ち、そしてそれと同じくらいに宮古島、そ
 の他の島々に対して一種の優越感を持っていることに痛ましい思いをした
 ことがあった。
  ソ連における、白ロシアウクライナグルジア等の各地に対する感じ
 方も似たようなものがあるようだ。これは一種のラッキョの皮をむくよう
 な中華思想の変形なのだが、、、

プーチンウクライナに対する感情は、おそらく勝手に可愛く思っていた弟が不埒にも兄の愛を裏切る形で絶縁を告げてきたことに対する激怒なのだ。ジョージアグルジア)も含めたこれまで差別してきた同系で臣従すべき者たちが離反することは、激烈なヘイト感情を呼び起こしたに違いない。前回のクリミア統合で一敗地に塗れることになったマニウポリへの容赦ない攻撃を見ても、プーチンは日本のヤクザの親分と同じ精神構造に囚われている。裏切り者に対する徹底した攻撃、敵に対する容赦のなさ。身内に対する微笑みながらの忠誠要求。そしてロシア連邦国民も強い親分を受容している。

 それにしても五木寛之を含めた60年代後半の世界を実際に見て認識の地平を広げようとした日本の若者たちの熱さはどこに行ったのだろう。とくに男子の内向きぶりは目を覆いたくなる。マザコン傾向もあるだろうが、KYなどと言いながら大勢順応をとことん仕込まれる教育もひどいような気がしてならない。

 

畏友今西一、逝っていた。

 畏友今西一が逝った。去年私の姉の亡くなったことを伝えたときにメールで「70過ぎですぐに死ぬのは可哀そうやな」と慰めてくれてから一年も経たずに逝ってしまった。急性心筋梗塞で自分から病院に電話して入院したがそのまま死亡したということだ。1月6日の夜のことだったという。学年では二年先輩にあたるが、知り合ったのは彼が44才でようやく常勤職を得て小樽商大に赴任してきたときからである。研究室への引っ越しはなんとJRコンテナ3個分。他にも官舎(当時はまだ我々は文部教官であった)にコンテナ2個分あったという。研究室にしろ自宅にしろ、当人の居場所にたどり着くまでに本棚の迷路を声をたよりにくぐり抜ければならなかった。日本近世・近代史研究ではすでに名をなしていたようだが、小樽での学的生産性の高さには目を見張るものがあった。専門分野だけでなく、先端思想の問題領域にも人並外れた読書量で鋭く切り込んでいた。とにかく始まったら話が止まらないのである。歴史という学問の厳しさをまざまざと見せてくれた先達でもあった。
 彼のもう一つの思い出に残るせりふがある。「常勤になれてようやく本屋への借金の重しが軽くなった。本を落ち着いて書ける、どんどんやるぞ」とほっとした口吻で言っていた。つまり伝説の引っ越し荷物はそのかなりの部分が本屋への借金の塊であったということだ。知り合いにビブリオフィルはたくさんいるが、借金の山を背負いながらというと今西一が筆頭か?でも京都(関西)もよく面倒を見てくれたというべきだろうか。学者を見る目が肥えていると言ったほうが良いかもしれない。
 どうか、あの世とやらでも読書三昧をお続けください。合掌。

今西一とニセコにハイキングに行った折に神仙沼で撮ったもの

 

マウリポリの惨状

 マウリポリに対するプーチンの常軌を逸した破壊命令はなぜなのか。当地を担当するアゾフ大隊こそはクリミア半島併合時、東部ドンバスとの回廊の要衝として奪取を画策したプーチンの野望を阻止した屈強の兵団だったようだ。ひょっとしてプーチンは前回の屈辱の挽回も目論んでウクライナ侵攻を企てたのではないか。マクロンの申し出も拒否したことからも、マウリポリを回復不能までに破壊しようとしていることが見て取れる。しかし、これってギャングの報復では?日本でも「倍返し」なんてのがドラマで流行ったが、これほどの仕返しを一国の大統領がやるとは。職を投げて逃げた日本の元総理が臆面もなく指導者然として発言を続けるのと同じで、世も末だ。