ブログ トドの昼寝

札幌爺のたわごと

関釜連絡船

 朝鮮半島を日本が植民地支配していたとき、半島との一番のパイプは関釜連絡船であった。いまでは博多と釜山がメインであるが、関門連絡船の時代では、下関が玄関口だったのだ。五木寛之は初期のエッセイでこう記している。

 生まれたのは福岡県である。生後、間もなく両親におぶわれ、関釜連絡船で玄界灘をこえた。関釜連絡船。帝国主義日本の大陸へのかけ橋であった。関は下関、釜は韓国釜山。下関の長い長い桟橋に私服や憲兵の目が光っていたのを憶えている世代も少なくあるまい。/興安丸。そして崑崙丸。小学校の夏休みには、何度となく特急亜細亜号で半島を駆け、興安丸で内地を訪れたものだった。/敗戦からかなりたって、引揚げてきた。大人たちは流浪の日々を、一つの呪文にすがって生きていた。/「内地に帰りさえすればーー」/(中略)/だが、人間が地獄に生きるためには、何が必要か。食物にあらず、水にあらず、勿論それは希望の一語につきる。/〈絶望の虚妄なること希望に同じ〉というあの魯迅の痛烈な言葉は、希望を否定するものではない。むしろ、希望にすがる人間の弱さを温かい悲しみでみつめている語録だろう。/流浪の民は、人工の希望の星を必要とした。すべての希望が崩れ去った荒野に、虚妄と知っていながら、一つの希望をかかげることが必要だった。それなくしては生きることができない状況だったのだ。そして内地とは、彼らの人工の希望であり、未来へのシンボルであったにちがいない。いま、三十の半ばを越えて、私はようやくそれを理解し得たように思う。/私たちのリバティ型輸送船が仁川から博多港外に着いたとき、仲間は半数以下にへっていた。夜だった。/「あれが博多の灯だ」/と、父親が言って絶句した。私は弟の手をひき、親父は妹を背負っていた。/上陸の前に、コレラ患者が出たという知らせがあった。私たちの船は、次々に桟橋に着く航続船を横目で眺めながら、港外に赤旗を立てて停泊した。/(中略)/博多は、私にとってそのような町である。大げさに言えば、末期の目で眺めた希望の町であり、絶望の彼岸でもあった。                                       「博多の女」pp.198-200 

 

下関港長桟橋                    釜山港桟橋

特急亜細亜号こそは満鉄が誇る列車であり、第二次世界大戦開戦前に坂本龍馬の大甥である満鉄職員坂本直道がパリで発行した雑誌『日仏文化』の広告欄にほぼ毎号紹介されていた。この雑誌の編集長を務めたのが松尾邦之助であった。ちなみに邦之助の弟、正路は小樽高商そして小樽商科大学でフランス語の教授だった。

 だが、宗主国の立場だけから見ては真実は見えてこない。

 「ぼぐが渡ったときはまだ少年だったし、それにもう数ヶ月後には戦争がおわるというときだったから、そんなでなかったですが、連絡船ではみんなずいぶんひどい目にあったそうですね」

 「思想調査だろう。ひどい目もなにも、思いだすことさえいやだが、しかし反面教師というもので、それで目ざめさせられたということもたくさんあった。おれなどずっと日本で育ったせいかのんきなもので、あの戦争の当時でもいろんな形で独立運動や革命運動があるということ、あるらしいといったほうがいいかな、それを教えられたのも思想調査の移動刑事によってだった」

 「だから、玄海灘を二、三度往復すれば、それだけでもう、自分が朝鮮人であることを目ざめさせられた、いやでも目ざめさせられずにいなかったと、、、」              金達寿小説集「対馬まで」

 

朝鮮人と分かるだけで、移動刑事のしつこくて荒々しいリンチに等しい扱いを受けるおそれがあり、次回顔を合わせようものならいきなり殴りとばされたという。桟橋には憲兵特高、船内には移動刑事。朝鮮人にとっては囚人船に等しかった。

 当時の勢いは見る影もない下関だが、広島宇品が陸軍兵站の玄関口だった時代、民間の半島そして満州への玄関だったのが下関であった。そしてこの海峡をこえるとき、支配者と被支配者を絶望的に分け隔てた暴力を伴った差別という非道の壁が現前したのである。小説『パチンコ』がアップルtvでシリーズ化されているが、この暴力もきっちりと描かれている。それにしても日本国内の現代史認識と海外のそれとの乖離がひどくなりすぎてはいないだろうか。ご存知のとおり、下関は安倍元首相の地元である。