ブログ トドの昼寝

札幌爺のたわごと

一番特急「北海」の思い出

 

特急「北海」が載った時刻表

 

 45年前のことになるが、身重の妻を残して、単身東北本線を青森まで。午前一時ころだったろうか、青函連絡船に乗り込み函館へ渡った。当時はまだ山線を走って小樽-札幌ー旭川とつなぐ栄光の一番特急「北海」が走っていて、それに乗って一路小樽へと向かった。ディーゼルエンジン特有のうなりに、さすが北海道と、妙な感慨を覚えたものだ。誰かが「熊が住む国とはいえ、人がいれば文化はあるさ」と送り出してくれたことを思い出しながら車窓をからぼんやりと景色を眺めていると気がついた。町と町の間には本当になにもないのだ。アメリカ西部劇のような世界なのかなと思っていると小樽に着いた。この印象は、その後、暴走族倶知安警察署襲撃事件によって確信に変わった。
 はや冬の気配の九月末、辞令をもらう前からとりかかった仕事が仏文の全国学会の準備だった。「講師」の肩書の入った名刺を刷ってもらい、小樽観光イラストマップ(蕎麦屋「藪半」の大将だった故小川原格氏に作っていただいたものだった)を携えて、昼は都通り商店街そして夜は花園界隈を寄付を募りながら歩き回った。たぶんその夜の姿を見た誰かが付けたのだろう、「夜の帝王」などとうれしくも恥ずかしいあだなを頂戴してしまった。昭和53年、小樽は運河問題で大揺れに揺れ、盛り場でも議論が盛んだった。今は富岡に建物が残る「すえおか」が花園の奥まったところにあり、藤井小樽商大学長*もたまに顔を出され、有名だった経済原論の講義さながらの「クイズ」で酩酊気味の新聞記者や町の名士たちを煙に巻いていた。今では死語となったキャバレーも、「モンパリ」や「現代」が健在だったし、「バイカウント」や建物は今も残る「八田屋」が高級クラブとして鳴らしていた時代だったが、その後の小樽花園町の衰亡ぶりはご存知のとおりである。
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*1:*藤井榮一 第6代小樽商科大学学長、東京商科大学(現一橋大学)出身でロンドン、スクール・オブ・エコノミックスで教えた経歴の持ち主。そのときの経験から講義では「クイズ」を出して学生の理解度を測ったという。