NHKニュースで取り上げられていて驚いたのだが、「脱コルセット」が今SNS上で大きな盛り上がりを見せているという。これは私が20年来某女子大の講義で必ず取り上げてきたアイテムだ。だが話を聞いていてもポール・ポワレもココ・シャネルも出てこない(私の不注意かも知れない)。19-20世紀の転換期、ベル・エポックの真っ只中で、女性のプロポーションの理想とされていた「S字カーブ」を可能にする器具が「コルセット」であった。侍女や召使が思い切りコルセットの紐を締め上げるシーンはカリカチュアとして常套化していた。ポワレは「女性の身体の自然なシルエットはそれだけで美しい」としてコルセットを廃したドレスを次々と発表していった。一方、シャネルはシルエットよりもむしろ「動きやすさ」を追及した結果「脱コルセット」デザインに到達した。特に第一次世界大戦で国家総動員体制に突入した各国、とりわけアメリカでは女性の職場進出が著しくこの流れは大きなものとなった。
そして日本では一世紀遅れて、この言葉が主観的なものも含めて「ジェンダー圧力」からの自己解放として使われることになった。日本でのジェンダー偏向は著しいものがあるが、同調圧力の強さもあって、無意識的に「女らしさ」を受け入れていることは論を待たないだろう。LGBTが話題となりながらも、ほとんど「らしさ」の受け入れを自然なものとして広告でダダ洩れ状態で使い続けている。東洋のガラパゴス面目躍如はもういいのではないか。周回遅れでもともかく走るべきだ。
映画『火口のふたり』と司馬遼太郎
外出自粛で、映画でもみようかと思い、WOWOWの番組案内を見て、柄本佑と瀧内公美の共演の『火口のふたり』(荒井晴彦監督・脚本)を見た。「金鳥」のコマーシャルで色気ありと気になっていた瀧内公美と柄本佑の絡み具合を見たいと思ったからだ。柄本明が映画でケンちゃんの親父の声で登場したのには笑った。もっと個人的に笑えたのが、直子(瀧内公美)が結婚する予定の相手が防衛大出の自衛隊員なのと、彼が防衛大へ入るきっかけとなったのが司馬遼の『坂の上の雲』だと分かるシーンだ。しかもパソコンのパスワードも「坂の上の雲」(sakanouenokumo?)ときて大笑いしてしまった。というのも、私の下の息子の友人にほぼ同じ運命をたどったのがいたからだ。彼らが高校生の頃、うちに遊びに来たのだが、私の本棚の『坂の上の雲』を見た彼は「ちょっと借りていいですか?」と言うので、いいよ持っていきなさいと貸してあげた。読み終えたのち返しにきたとき姿勢がシャキッとしていることに気付いた。その後彼は猛勉強の末に防衛医大に見事現役合格、今は医官として大成しつつあるようだ。彼が「ただで医者になる道であり、生き甲斐を感じます」と言ったことを覚えている。司馬遼の影響力恐るべし、秋山兄弟の生き方に共鳴する若者は確実に居る。私は正岡子規の時代を描いた必読書として読んだのだが。
なぜだか朝鮮半島、、、五木寛之『深夜美術館』
藤女子大の図書館で久ぶりに手にった講談社版五木寛之小説全集もようやく28巻まできた。やはり読むペースは年相応とみえる。で、第28巻収録作品の初出情報を見ていて最後の『深夜美術館』だけが昭和50年の小説現代7~9月号で、それ以前は昭和47年の春までになっている。一回目の断筆だろう。で再開第一作が『深夜美術館』、舞台は日本だが内容は日本植民地支配下の朝鮮半島での美術品収奪だ。読んでいるうちに日本の骨董商売につきまとう底知れぬ闇が浮かび上がってくる、フィクションだという断り書きがなんとなく白々しい。そして思い出したのが、大学に勤めていたころ仕事で訪れた韓国で案内された古墳のあまりにスッキリした「なにもなさ」だ。案内していただいた専門家と通訳のお二人が、われわれの「じつにあっさりした埋葬ですね」という感想に、妙にこわばった笑いで応じられた。半島の歴史の暗部を知らない者にとって実に失礼なことを言っていたのだな、と今更ながら思うのだ。
冷え込んだ日韓関係だが、日韓請求権交渉で妥結済みだとする日本政府の物言いの居丈高なことに違和感を覚える。幼いころから身近に見てきた被差別部落や朝鮮人部落。極めつけは「仁義なき戦い」で登場する、元安川の基町の川べりにせり出すようにしてあった、被爆者も含めた部落だ。差別がいろいろなところに、無意識の領域も含め、内在化されていることに気が付き始めたのはいつ頃だったろうか。
「バベットの晩餐会」とアメリカ大統領選
アメリカ大統領選挙を見ていて、ふとガブリル・アクセルの映画「バベットの晩餐会」を思い出した。フランス料理というかレストランが生まれてきた背景にフランス革命があるとか、ジェンダー的偏向としての「女料理人」とかはさておいて、映画の舞台に思い至ったからだろう。デンマークのとある半島の寒村なのだが、住人は老人ばかり。なぜか?彼らは敬虔なプロテスタントで結束は固い(実はお互いを常に窺っているのだが)。なんのことはない、プロテスタントのあるセクトの村なのだ。かつての美人姉妹がセクトを起こした父の位牌を固く守って信者たちと信仰生活を維持しているという具合だ。当然若者たちは村を出て行く。そんな村に身元不詳の中年女が流れ着き、老姉妹のもとに身をよせる。宝くじが当たった女は賞金で村の全員にフレンチのフルコースを極上のワインをマリアージュさせて振る舞うことにする。そしてその晩餐は村人たちにとって至上にして最後?のものとなる。そして女は村を去る。
ここで注目したいのは、プロテスタントのセクト共同体の意識だ。共同体の外部は悪魔の誘惑に満ちた世界であり、行ってはならぬ敵の地である。アメリカに渡ったピューリタンたちの心性もほぼ同じであろう。アメリカという新天地で自分たちだけの共同体を築く、新大陸はそれを可能にする処女地であった。だが、そのアメリカはやがて奴隷として移住させられたブラックアフリカンと19世紀末からのヨーロッパの近代化で大量に発生した貧困層や飢饉に襲われた貧農たちの大量の移民によって揺さぶられることになる(最後にはヒスパニック系)。つまり、福音に信仰の基盤をおくプロテスタント共同体(イングランド移民)というアメリカの基底部を見ないと、トランプの健闘ぶりは説明がつかないように思われる。グローバリズムの果実をこの映画のように味わうこともなく、見捨てられたと感じるホワイトアメリカンの最後の抵抗としても見ることができるのではないだろうか。
それにしてもトランプの悪あがきは、一夜の夢の後始末もできない、無様としか言いようがないのだが、これ以上の愚行は犯さないで欲しい。
「パチンコ」グローバル三幅対
韓国系女性による、「パチンコ」トリプティック(三幅対)完成
まずはアメリカで100万部突破したMin Jin Leeの Pachinko (2017)だ。下記のサンフランシスコ・クロニクルの跋文がズバリだろう。
‟Beautiful…Lee’s sweeping four-generation saga of a Korean family is an extraordinary epic.”
– San Francisco Chronicle
Kindle でダウンロードして読み始めたら止まらなくなりそうだ(実際は老いと英語のせいでずっこけっぱなし)。
次は、北大経済学部の韓 載香(はん じゃひぇん)の2018年サントリー学芸賞受賞作品『パチンコ産業史ー周縁経済から巨大市場へ』(名古屋大学出版会、2018年)だ。
その昔、韓国にパチンコを導入しようとしたが、あまりに熱中を誘うので危険と判断されて禁止されたことを思いだした。日本では巨大産業となり、コロナ禍で「何故営業自粛しないのか!」との批判も受けたが、潰れそうな気配はもはやない。一部では「日本人の資産を奪って半島に送っている」との指摘もあるが、日本だけで繁栄するギャンブル性強い娯楽産業だ。在日コリアンの女性経済学者が、正面きって取り上げ、今では受賞すれば大学がHPのニュースに取り上げるというサントリー学芸賞を取ったのだから、日本の学問的成熟として評価するべきなのだろう。麻雀は絶滅が危惧されるが、それを尻目にパチンコがなぜかくも日本で隆盛をきわめているのか、別の観点からの分析も待たれる。
最後は韓国系スイス人 Elisa Shua Dusapin の Les billes du Pachinko 、『パチンコ(の)玉』(私としては「の」は要らない)だ。Folio でも発売になっているのですぐに手に入ると思う。だだし、 kindle 版は EU 以外ではダウンロードできないので注意。
Swissinfo の記事から引用しておこう。
8月に出版された2作目の「Les billes du Pachinko(仮題:パチンコの玉)」(ZOE出版)は初作に見劣りしない素晴らしい出来だ。無駄な飾りのないシンプルな文体、人間関係や根底に流れる西洋と東洋の文化の違いからくるすれ違いなどの細こまやかな観察がそこにある。1作目は韓国だったが、2作目の舞台は朝鮮戦争で1950年代に多くの韓国人が避難してきた日本だ。
ミエコとハイジ
「在日コリアンはその国籍を理由に労働市場から締め出されていた。彼らは娯楽を考え出した。垂直の板。玉。機械仕掛けのレバー」。デュサパンさんの小説の一節だ。この作品も出会いをモチーフにしているが、今度は幼い日本人の女の子ミエコと語り手クレールの物語だ。スイス人の学生クレールは、東京に住む韓国人の祖父母宅を夏の間だけ訪れている。
21世紀に入って、ヨーロッパー日本ーアメリカと、まさにグローバルな展開を見せる女性コレアンたちの活躍ぶりに注目していこう。
「討匪行」考(続)
森繁久弥とお登紀さん
加藤登紀子のデビューはシャンソンであったことには間違いはない。だが、日本のシャンソン愛好家たちはある意味自意識が高くなる傾向があった。赤塚不二夫の『おそ松くん』で「おフランスざーます」のセリフを吐くイヤミのキャラクターにそれが象徴されている。もう一段上の普遍性を備えなければと、彼女が見つけた水脈が「叙情」の日本的伝統であり、それを体現していたのが森繁久弥だったのではないだろうか。求めて満洲に赴き敗戦をそこでソ連軍侵攻の内に迎えた森繁の「討匪行」は、「日本人の叙情性」の核心に触れる歌であったように今聞いても思う。1970年11月リリースのアルバム『日本哀歌集ー知床旅情ー』には当然のごとく「討匪行」は入った。だがまだまだ70年である。69年の東大入試は中止となり、68年の秋の東大での全共闘/反日共系全学連総決起集会には彼女は顔を出している。「軍歌」を歌うとは、、、という原則論的難詰が起きても当然であろう。以後再版では採用されなくなる。
そしてニューレフトが実践において激しく退潮しいくなか、中島みゆきが、シャンソンのエスプリも内包しつつ、日本語の詩的革新者ともいえる「歌姫」として登場してきた。そのときお登紀さんはなにを感じただろうか。天沢退二郎の「みゆき」萌えぶりはいまでも微笑ましく思い出される一方で、お登紀子さんの「討匪行」をなんども繰り返して聞く団塊世代は今なお多いような気がする。ただし、どちらも絶滅を待ちながらではあるが。森繁久弥の歌っているのを載せておこう。
『にっぽん三銃士』、気になる「討匪行」
講談社の五木寛之小説全集全巻読破に挑戦中。昔のスピードはもうないので、のんびり行くしかない。現在『にっぽん三銃士』(第十五、十六巻)も終わりにかかってきた。スラップスティック小説だが、小林信彦や筒井康隆への対抗意識はあっただろうか?終わり方に幻滅したという感想が多かったそうだが、振り出しに戻るという手法は頷けるし、帰還は新たなスパイラルを予感させるし、出発点も元のものではあり得ないだろう。
一郎は友人のH.T.や松田優作を彷彿とさせるし、読者は登場人物のそれぞれに自分の周囲の誰かを当てはめながら読み進めるだろう。そしてなによりも時代の空気が背景描写や歌にのせて見事に立ち上がってくる。当時読んだときも、哄笑を押さえながら頁をめくったが、距離を置いてもこみ上げる笑いは新鮮だ。
一つ気にかかったことがあるので記しておく。
下巻(第16巻)の79~80頁にかけて、戦中派の主人公の一人、黒田が歌う「討匪行」(八木沼丈夫作詩、藤原義江作曲)についてだ、私の数多い叔父たちの内にはシベリア抑留者だった人や満州で負傷した人そして戦死した方もいる。親族が本家に集まると酒盛りになり、やがて軍歌になったりするのだが、息子を失った祖母を気遣ってか、あまり放歌高唱とはならない。シベリア抑留を被った叔父が呟くように歌ったのがこの「討匪行」だったことを思いだした。
そして加藤登紀子もこれを歌っていたことを思いだして、ネットで調べてみると、1971年発売(ポリドール)の『日本哀歌集/知床旅情』が出てきた。買ってはいないが、記憶にはある。コロナの見舞金?で入手しようかとネットショップに入ってみると、再版が売りに出ていて、視聴リストもあった。だが「討匪行」はない!再版にあたって外したのだろうが、お登紀さんの個人的判断なのかどうか知りたいところではある。渥美清の歌ったのがあるので参考までに。