『バラカ』集英社、2016年2月発行
pp.232-234 「大震災」、水獄
買い物に行くためにせっかく休みを取ったのに、ぐずぐずしていると夕方になってしまう。優子は急いで着替え、バラカを連れてマンションの部屋を出た。七階でエレベーターを待つ。上から降りて来たエレベーターに乗り込もうとすると、バラカが急に抗った。足を踏ん張って、乗りたくないと駄々をこねる。
「どうしたの、珍しいね」
バラカが階段を指差した。そちらか行こうと言うのだろう。しかし、小さな子を連れて七階分も階段を下りるのは大変だ。優子は無理やりバラカの手を引いて乗せた。バラカは諦めたような顔で小さく嘆息する。その様子を見て、優子は嫌な予感がした。
下降し始めた途端、ガツンと大きな音がして、エレベーターが上下動した。その後、激しく揺れて右に左に壁にぶつかる。ワイヤーが千切れて落下するのではないかと思うと怖ろしかった。優子は悲鳴をあげてバラカを抱き寄せた。
大きな地震が起きている、と気付いたのは、エレベーターが停まったまま、ガタガタと揺れ続けた時だった。ようやく揺れが収まって階数ボタンを見ると、四階と五階の間で停まっている。それから電源が消失したのか階数ボタンの表示も消えて、グリーンの非常灯が点灯した。
抱いているバラカと目が合った。怯えているが、泣いてはいない。エレベーターに乗るのを嫌がったことを思い出して、バラカには地震が起きることがわかっていたのだろうかと不思議な思いに囚われた。
あちことで人が走り回る音がした。
「誰か閉じ込められていますか?」
下の方からする。
「はい、閉じ込められています。七階の田島です。親戚の女の子も一緒です」
「手配しますので、ちょっと待ってください」
冷静な声にほっとする。親戚と付け加えたのは、親の連絡先を探そうとする混乱を避けるためだった。
しかし、助はすぐには来なかった。優子は電話をかけて家族や友人の安否を確かめようとしたが、携帯は通じなくなっていた。ただ、携帯の照明がほんのりとバラカの顔を照らした。
「バラカちゃん、寒いね。大丈夫?」
バラカが懐に入って来る。抱き寄せながら、優子は何となく安心した。この子と一緒なら大丈夫。生きていける。バラカには、人を安心させる何かがある。
「バラカ」という名前は、「神の恩寵」だと説明した養子エージェントのナースの言葉を思い出した。だとしたら、バラカを手放した沙羅はどうなるのだろうか。
優子はこの時初めて、沙羅が死に瀕しているような不吉さを感じた。
二時間後、ようやくエレベーターから助け出された時は、二人とも冷え切っていた。部屋に戻った優子は、すぐにバラカを暖かい毛布でくるんでベットに寝かせた。
テレビを点けた優子は声を失った。仙台平野を、黒い海水が怖ろしい速さで呑み込んでいた。
「何これ!」
自分たちがエレベーターに閉じ込められて凍えている間、東北地方の沿岸部は巨大津波に襲われていたのだという。
しかも、大地震の被害は甚大だった。東京の交通機関はすべて止まり、帰宅困難者が出ている。閉じ込められたとはいえ、二時間程度で部屋に戻れたのは幸いだった。もし、デパートに出掛けていたら、帰宅するのに五、六時間かけて歩かねばならないところだった。
携帯電話が通じないので、家の固定電話でテレビ局に連絡をする。幸い佐竹が出た。
「特別番組のために、総動員体制になりました」
「すぐに行きたいけど、バラカを預ける算段ができないと思うのよね。できたら行くけど、無理かもしれない」
「タクシーも摑まらないから、みんな歩いて出社していますよ」
「歩くのはいいけど、バラカを預ける先が見付からないかもしれない」
「だったら無理しないでください」
そう言われたが、出し抜かれるのが嫌な優子はぎりぎりと奥歯を噛んだ。テレビの画面には次々と信じられないような映像が映し出されている。
ぼんやりとその映像を眺めているうちに、薄暗くなった寒い部屋でテレビに見入っている自分に気付いた。沙羅が引っ越したのは、確か沿岸部の町だったと思い出す。
黒い水を見ているうちに、「不幸への道」という言葉が思い浮かんで、優子は激しく頭を振った。いや違う。沙羅はバラカをいとも簡単に手放したからよ。
動悸が激しくなって、いても立ってもいられず、優子は部屋の中をうろうろと歩き回っていた。