ブログ トドの昼寝

札幌爺のたわごと

桐野夏生の震災表現 その1

『バラカ』集英社、2016年2月発行

pp.217-221 「大震災」水獄

 洗面所に向かった時だった。いきなり足を掬われるように大きく床が揺れて、何ごとかと驚いた。地震だと認識するまで、何が何だかわからず、ただ怯えて洗面台に摑まって蹲っていた。

 揺れは収まるどころか、次第に激しくなった。洗面台の扉が勝手に開いて、化粧水の瓶や歯磨きコップが床に落ちた。家がギシギシと不気味な音を立てて軋んでいる。台所からは、食器が落ちて割れる音が響いてきた。やがて、パシッと大きな音がして、停電した。近所の家から、大きな悲鳴があがる。

 洗面所の照明も消えて、家の中が急に薄暗くなった。とりあえず揺れが収まるまでは、この狭い空間にいた方が安全だろう。外に飛び出したくなるほど怯えている自分を宥めながら、両腕で体を抱いていた。

 何分経ったのだろうか。ようやく長い揺れは収まったようだ。よくも家が壊れなかったものだ。ほっとして立ち上がる。表では、軋む戸を開ける音や、大きな声で誰かの名を呼んでいるのが聞こえるなどして騒然としていた。

 外に出て様子を訊こうと思ったが、知り合いもいないので、家の中でじっとしている。これほど大きな地震ならば、商店も開かないだろう。握り飯を作っておいてよかったと妙な安心をする。

 居間に行ってテレビを点けたが、停電したままで映らない。携帯電話も通じないし、パソコンは不通。キッチンでは、案の定、母親の洋食器がすべて下に落ちて割れていた。その惨状を見ると、気分が落ち込んだ。ガスも点かないから、このままでは凍死しかねなかった。

 やはり外に出た方がいいだろう。しかし、この街に着いたばかりで地理も何もわからないのだった。

 沙羅は、二階の寝室に戻って外を眺めた。表では、自転車に乗った男たちが慌ただしく駆けずり回っていた。

津波が来るぞ」

「早く逃げろ」

 つなみ?実感のない沙羅は、二階の窓から背伸びして海の方を眺めた。昨夕は気付かなかったが、漁船がたくさん港に停泊している。変わったことは何も起きていないように見えた。

 それでも不安に駆られて表に出た。ちょうど何ごとか叫びながら、市の広報車らしき車両が走り去った後だった。右隣の家では、老人が出て崩れたブロック塀を片付けている。

 避難中なのか、家族で連れ立って歩いて行く人もいたが、どの住人も比較的のんびりしているように見えた。

 ふと、左隣の二階からこちらを眺めている老女と目が合った。老女がガラス戸を開けて沙羅に訊ねた。

「あんたは川島さんのうちの人ですか?」

「はい」と、答える。

「東京の奥さん?」

「そうです。あのう、津波が来るんですか?」

「来るとは思うけど、どうかしら。そんなにたいしたことはないと思うわよ。二階にいれば大丈夫でしょ。避難するなら、公民館に行ったらどうですか」

「公民館はどこですか」

「ここから十五分くらい行ったところにあるの」

 頭痛がするのに十五分も歩いて行くのは面倒だった。津波が本当に来るのかどうかもわからない上に、ただ風評だけで、知らない街を右往左往するのは嫌だ。『二階にいれば大丈夫でしょ』。老女の言葉にすがった。

 台所の割れた食器を片付けていると、表で何か騒いでいる。箒を片手に出てみると、隣の老女を親戚らしき人が呼びに来ているのだった。

 どうしても動きたくないという老女を説き伏せて、無理やり車に乗せている。どうしたのだろう。それほど切迫しているのだろうか。

 ふと見ると、家の前の運河の水が急速に減っていた。底が露わになって、逃げ遅れた魚がぴちゃぴちゃ跳ねている。

 隣の老女を乗せた車が、沙羅の姿を見つけてUターンしかけたが、諦めたのか、またくるりと前を向き、一心に内陸に向かって走って行く。

 その時、波音ともつかない、不思議なざわめきが聞こえた。振り返ろうとした沙羅は驚いて立ち竦んだ。いきなりくるぶしまで黒い水に浸かって、足をとられそうになったのだ。

 これが津波

 慌てて、家に飛び込んで玄関ドアを閉めようとしたが、水の侵入の方が遥かに速かった。瞬く間に、一階に激流が入り込んで来る。バリバリと窓ガラスが割れる音がした。

 階段を駆け上がり、二階の寝室に飛び込む。窓の外を見て、思わず悲鳴を上げた。ほぼ二階の高さを船が行くのが見えたのだ。いや、船だけではない。車も看板も家も何もかもが沙羅の家目がけて押し寄せて来ていた。二階の窓ガラスが割れて海水が入って来る。

「助けて」

 沙羅がようやくその言葉を口にした時、川島との新居になるはずだった家は、土台からゆらりと動いて、沙羅をダブルベッドの上に載せたまま漂流を始めた。

 沙羅は自分では意識しない何ごとかを夢中で叫びながら、窓から外に出ようとした。家の中にいたら死んでしまう。ともかく、屋根に上るのだ。 

 裸足のままベランダに出た。フェンスに足を掛けて、屋根の軒を摑む。自分でも信じられない力が出て、何とか自力で屋根によじ上ることができた。その瞬間、屋根が電信柱に引っ掛かった。水の恐ろしい力で引き千切られた電線が飛んで来て、沙羅の右の頬と目の辺りを打った。手で触ると血が出ているようだが、痛みも感じない。沙羅は、瓦を摑んで屋根から振り落とされまいとした。

 あちこちで土煙が上がり、ところどころ火が出ていたが、海水は怖ろしい量で陸地に押し寄せ続けている。あらゆる物が、あたかも洗濯機の中の洗濯物のごとく、大量の海水に揉まれて、泥まみれになった。

 逃げ遅れたのか、運転席に人を乗せたまま軽自動車が流れて行く。乗っているのは、幼女を乗せた若い母親だった。幼女が窓ガラスを叩いて何かを叫んでいるが、押し寄せる海水と建物が壊れる音とに邪魔されて、何も聞こえなかった。沙羅と若い母親は、互いに絶望的な視線を合わせたがあ、それも瞬間で、あっという間に軽自動車は波間に消えて行った。

 沙羅を乗せた屋根は内陸に向かって流れていたが、突然、強い力で海に戻され始めた。このまま引き潮で沖に流されてしまうのだろうか。沙羅は屋根にしがみついて飛び移れる物を探したが、急に右目が痛みだしたため、諦めて屋根の上に俯せになったまま気を失った。

 再び気が付いたのは、夜だった。沙羅はガレキの山の中にいて、かつ真っ暗な洋上を漂流しているのだった。誰かが啜り泣いているのが聞こえた。犬の鳴き声もする。生き残っている人間や動物が、このガレキの山の中に閉じ込められているのだろう、自分のように。

 だが、沙羅の乗った屋根は波に打たれて、次第にバラバラになってきていた。辛うじて足を乗せている柱が海に沈みかけている。すでに足の感覚はないから寒さは感じなかった。

 まさか、こんな死に方をするとは思わなかった。これが私の運命だったんだね、ママ。話が途中になっちゃったね、優子。あたしたち、仲がいいんだか悪いんだか。一人増えれば一人減る。あたしの代わりに誰が増えるのかしら。沙羅は星空を見上げて、最後に少しだけ笑った。