ブログ トドの昼寝

札幌爺のたわごと

目黒士門先生ご葬儀&P.ドゥヴィル講演会

前日ようやくファックスが入り、東北大仏文研究室を始めとして、齋藤廣信先生、永原先生等々連絡を入れる。午後からの女子大での講義の準備をして家を出る。夜は札幌アリアンス・フランセーズで仏人作家の講演の通訳だ。昨日の朝一での授業から延々と走り続けている感じで、頭がボーッとし始めてきた。
講演は『ペストとコレラ』(みすず書房)の原作者パトリック・ドゥヴィルで、話は赤道を一周する実際の旅を横糸に、1860年以降の近現代史を縦糸にして、様々な天才や探検家の人生を辿りながら、およそ12のゾーンをそれぞれ舞台に個から国家そして世界へと繋がる歴史の動きをルポ風にしかし活劇の面白さも充満させて描いてきたその作家活動と作品の紹介だ。エピソードを一つ紹介しておこう。現在のパナマ運河、なぜ地勢や土木技術から見てはるかに簡単なニカラグアに掘られなかったかの話である。実際、ニカラグアに運河を開削し、奴隷の生産地にしさらには英語を現地に普及させようとしてアメリカ(正確には南部アメリカ)からフィリバスターとしてウィリアム・ウォーカーが乗り込んだ、彼はニカラグア大統領にまでなるが暗殺される。彼を暗に軍事的にも支援したのがフランスで、運河開削についてウォーカーと約束を交わしていたという。大統領暗殺後ニカラグア運河構想の実現に乗り出そうとしたフランスに対して、米・英は戦争も辞さずとして中止を要求した。これに対してフランスは、レセップスのスエズ運河開削をさせてインド洋から太平洋地域で英国と対抗することを最優先にすることとして、要求を呑んだ。その意趣返しとして、メキシコに目を付けマクシミリアン一世を傀儡として立てることにしたのだが、これもあっという間に失敗する。こうして中米地域からフランスは完全撤退を余儀なくされた。そしてスエズ運河開通後、フランスの植民地政策はインドシナへと向かって行くのである。