ブログ トドの昼寝

札幌爺のたわごと

ツアーで白川郷へ

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和田家から見た郷内

晦日に千歳を出て名古屋セントレア空港着後まずは白川郷へ。駐車場に溢れんばかりの観光バスと大半が東アジアと東南アジアからの観光客。郷へ渡る吊り橋が落ちるのではないかと心配になるほどの混みようだった。雪模様のおかげでしらけることなく、飛騨の冬景色と合掌造りの里を楽しむことができた。東海北陸自動車道のおかげで可能になったツアー初日と言えるだろう。飛騨から越中富山へそして翌日は加賀の金沢兼六園と越前永平寺を巡る。

大沢真理さんの発言に触発された。税制のいじり方がよく分からないせいでもやもやしていた日本の貧困化の本質がよく見える。

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もう一つ、本来は高所得層から税や社会保険料を取り、年金や手当、生活保護などの社会保障給付で低所得層に還元する「所得再分配」が、逆に貧困の拡大を招いている現実がある。

 政府による所得再分配の前と後で、貧困率がどれくらい下がったかを示す「貧困削減率」という指標がある。経済協力開発機構OECD)の09年の分析では、各国は再分配後に貧困率を20~80%削減しているが、日本だけが唯一、共働き世帯やひとり親世帯で、貧困率を8%増加させていた。

 所得再分配が正常に機能していないのは、高所得層に優しく、低所得層に厳しい税制が大きな原因だ。80年代は70%だった所得税最高税率を40%前後まで下げた。90年代後半から法人税も繰り返し下げ、年間10兆~20兆円規模の税収を放棄する一方で、消費税や社会保険料の引き上げで低所得者に負担を強いてきた。日本はOECD諸国の中で、税の累進性が最低レベルだ。

 こうして見ると、子どもの貧困は政府がつくり出してきたと言える。

 正規、非正規労働者の賃金格差をなくすため、「同一価値労働同一賃金」の原則を徹底し、最低賃金を上げる。配偶者控除のような高所得層を優遇する制度は撤廃する。所得税最高税率を引き上げる。子どもの貧困を解決するため、政府が取るべきはこうした政策だ。

 ▼貧困率所得再分配 平均的所得の半分に満たない世帯で暮らす子どもの割合を示す「子どもの相対的貧困率」は2012年時点で過去最高の16.3%。貧困ラインは、日本では生活保護ラインにほぼ相当するとされている。

 経済協力開発機構OECD)の調査では、働いているひとり親の相対的貧困率は日本が突出して高く、約60%。子どもの貧困率が日本より高い米国でも約35%で、デンマークなどの北欧諸国は3~5%だ。1人で家計を支える親の賃金の低さや支援の乏しさを物語る。

 所得再分配政策が正常に機能しているかどうかを示す「子どもの貧困削減率」は主要18カ国中、日本は唯一のマイナス。1980年代から一貫して再分配後に貧困率が上がっている。イタリアなども80年代はマイナスだったが、プラスに改善した。

畏友、国末憲人が『テロリストの誕生』(草思社)を出した。「はじめに」でいかにも彼らしいデータ提示をしている。

一年間で起こりうる割合

▶交通事故 六千七百人に一人

▶自殺   九千二百人に一人

▶殺人   一万八千人に一人

▶落雷   三百万人に一人

▶航空機事故 三百十万人に一人

▶テロ   五百二十九万三千人に一人(二〇〇五年)

▶サメに襲われる 二億八千万人に一人

それなのに、どうして私たちは、テロを恐れるのだろうか。

 

現代を読み解くための必読書の一冊になりそうだ。

桐野夏生:村野ミロの誕生

『ローズガーデン』、講談社、2000年6月、第一刷

p.22

皮を被って、心は百八十度違う奴。そう思って眺めたら、ミロは悪くなかった。まだ幼い顔付なのに目が据わっていてアンバランスだ。そのアンバランスな気配が気になって仕方がない。何かありそうだ。俺は女の目利きだ。俺はミロを、「悪くない」から、魅力的な部類に昇格させた。

 

『ナニカある!』で桐野は林芙美子のボルネオ行きの秘密の解明を主旋律に芙美子の淫乱な性の欲動を奔放に描いたが、そのインドネシア取材の副産物として河合博夫(アグロ・コウワ電装のジャカルタ支店営業部勤務で単身赴任中)の妻として村野ミロを登場させる。二人の高校生時代の出会いを描くことによってミロの複雑な心の在り様の発端を紹介している。

 

p.23

 ミロの家は、駅の逆側の静かな住宅街にあった。これといった特徴のない家だが、ひとつだけ人目を引くものがあった。誰も手入れをしないらしく、庭が異様に荒れているのだ。雑草がはびこり、剪定をしていない庭木が塀の隙間から飛び出ている。蔓草が塀を伝い、母屋にも絡み始めている。俺の家にも小さな庭がある。お袋があれこれ手を加えたせいで、リビングの前には鉢が並んで名前の知らない花が絶えず咲いていた。それも鬱陶しいと思っていたが、ミロの家の庭にも、気圧されるものがあった。

「ワイルドだな」

俺の呟きに、ミロはさり気なく答えた。

「母親死んだから、誰も構わないの。長い間病気だったし」

 

p.24

ミロが玄関の鍵を開け、自転車を庭に隠すように命じた。俺は玄関横の木戸を開けて庭に回った。三十坪くらいの庭は雑草が茂り、木の枝が鬱蒼として小さなジャングルのようだった。あちこちに置き忘れられたみたいに赤や黄色の薔薇が咲いている。立ち枯れているものもあれば、今を盛りと咲き乱れているのもあった。目を奪われたが、庭は立ち入ることを拒むかのように丈高い雑草に覆われている。

 

pp.26‐28.

俺はリビングから庭を見た。荒れ放題の庭には、そこかしこに薔薇。俺は柄にも似合わず、美しいと思っていた。「ていうか、好きかもしれない。どっか山の中に閉じ込めれた気がする」

(中略)

 ミロが俺の目をじっと見つめた。冷めていて熱い。そこに見え隠れする関心と無関心。ああ、こいつもやはりあの手の女だ。間違いない。俺はミロの両腕を無理矢理押さえてキスをした。眼鏡屋の女もN子もいつだって化粧品の匂いがする。だが、ミロの全身からはリンスと石鹸と歯磨きと得体の知れない匂いが同時にした。動物の匂い。それも若いメスの動物。そう気付いた途端、俺は急に頭が爆発しそうになって口走った。

「やりたい。だけど、こんないきなりでいいのかな。幾ら何でも手続きがいるんじゃないか」

「手続きって何よ」

 ミロは余程おかしいのか、俺の逃れるとソファに転がって爆笑した。標準服のスカートの裾からちらりと白い太腿が見えた。泥跳ねのあるソックス。

「つまりさ、まず好きって気持ちがないとまずいだろう。それからさ、お茶を飲んだり、映画行ったりして知り合ってさ」

 ああ、何と馬鹿なことを口走っている。俺はうろたえた。同級生の女なんて小便臭いと端から相手にしていなかったから、思いもかけないミロの女振りに動転しているのだった。

「どうだっていいのよ、そんなことは。気に入れば後からやればいいの」

 ミロは立ち上がって、奥の部屋に俺を引っ張って行った。そこは部屋の中央にダブルベッドが置いてあった。きちんとベッドメイクされていたが、誰かが使っている形跡がある。俺は部屋を見回した。頑丈なデスクの上には教科書もレコードも本もない。部屋全体から煙草の臭いがした。

「お前の部屋か」

「違う、父親の部屋」

「まずいよ」俺はびびった。「お前の部屋に行こう」

「ここがいいのよ」

 ミロは厳然と言い張って、自らセーターを脱いだ。真っ白なシャツを着ていて、早くもそのボタンに指をかけている。

「何でだよ」

「どうしても」

 だが、躊躇う風にスカートのホックを外しかねて立っている。急に自信を喪失したように見えた。疑問が湧いた。

「お前、処女じゃないだろうな。俺は処女とはやらないぜ」

「何でそんなに偉そうに言うの。怖いから?」

 

 

 

桐野夏生の震災表現 その3

『バラカ』集英社、2016年2月発行

pp.246-247 「大震災」、水獄

「俺、夕方までここに居させてもらうかもしれない。光ちゃん、見ててやろうか」

 一瞬、迷った。テレビ局にバラカを連れて行くのは無理そうではあった。予想通り、未曾有の被害が出ている。朝陽の下に晒されたのは、津波が去った後の、大量のガレキと遺体だった。おそらく、友軍としてもきつい一日になりそうだった。しかし、離れたくはない。

「大丈夫、連れて行くわ」

息を詰めて優子を見ていたバラカがほっとした顔をした。この子は幼いのにわかっているのだろうか。不思議に思った時、携帯電話が鳴った、佐竹からだ。

「おはようございます。田島さん、大変です」

 声が切迫しているので、何ごとかと身構える。奥の寝室に入って、ドアを閉めた。

「どうしたの」

福島第一原発が爆発しました」佐竹が早口になった。「政府は発表していませんが、昨夜一号機が爆発。その影響で今朝、第二、第三、第四と次々に爆発しました。どうやら政府ははっきり言いませんが、チェルノブイリ級以上らしいんです。昨日の地震で外部電源を喪失したところに津波が来て、全部の電源が切れたらしいんです。もう手が付けられないんですよ」

「えっ?よくわからない」

 知識のない優子は混乱したまま、問い返した。

「はっきり言いますとね、今は放射能がばんばん出ていて、半径八十キロ圏内は全員避難です」

「ちょっと待って、東京は?」

「二百三十キロあります」佐竹は苛立ったように怒鳴った。「でも、風がこっちを向いていますから、放射能が降り注ぐと言われています。米軍も撤退するようです。うちの局もいずれ全員退避になるでしょう」

「じゃ、行かなくていいのね?」

「はい、あたしもこれから家に帰ってすぐに西に逃げます」

「西ってどこに行くの」

「わかりません」佐竹は泣き笑いのような声を出す。「主人と相談します」

「ああ、そんなSF映画みたいなことが起きるなんて」

 優子はそう言ったきり、絶句した。

桐野夏生の震災表現 その2

『バラカ』集英社、2016年2月発行

pp.232-234 「大震災」、水獄

 買い物に行くためにせっかく休みを取ったのに、ぐずぐずしていると夕方になってしまう。優子は急いで着替え、バラカを連れてマンションの部屋を出た。七階でエレベーターを待つ。上から降りて来たエレベーターに乗り込もうとすると、バラカが急に抗った。足を踏ん張って、乗りたくないと駄々をこねる。

「どうしたの、珍しいね」

バラカが階段を指差した。そちらか行こうと言うのだろう。しかし、小さな子を連れて七階分も階段を下りるのは大変だ。優子は無理やりバラカの手を引いて乗せた。バラカは諦めたような顔で小さく嘆息する。その様子を見て、優子は嫌な予感がした。

 下降し始めた途端、ガツンと大きな音がして、エレベーターが上下動した。その後、激しく揺れて右に左に壁にぶつかる。ワイヤーが千切れて落下するのではないかと思うと怖ろしかった。優子は悲鳴をあげてバラカを抱き寄せた。

 大きな地震が起きている、と気付いたのは、エレベーターが停まったまま、ガタガタと揺れ続けた時だった。ようやく揺れが収まって階数ボタンを見ると、四階と五階の間で停まっている。それから電源が消失したのか階数ボタンの表示も消えて、グリーンの非常灯が点灯した。

 抱いているバラカと目が合った。怯えているが、泣いてはいない。エレベーターに乗るのを嫌がったことを思い出して、バラカには地震が起きることがわかっていたのだろうかと不思議な思いに囚われた。

 あちことで人が走り回る音がした。

「誰か閉じ込められていますか?」

 下の方からする。

「はい、閉じ込められています。七階の田島です。親戚の女の子も一緒です」

「手配しますので、ちょっと待ってください」

 冷静な声にほっとする。親戚と付け加えたのは、親の連絡先を探そうとする混乱を避けるためだった。

 しかし、助はすぐには来なかった。優子は電話をかけて家族や友人の安否を確かめようとしたが、携帯は通じなくなっていた。ただ、携帯の照明がほんのりとバラカの顔を照らした。

「バラカちゃん、寒いね。大丈夫?」

 バラカが懐に入って来る。抱き寄せながら、優子は何となく安心した。この子と一緒なら大丈夫。生きていける。バラカには、人を安心させる何かがある。

「バラカ」という名前は、「神の恩寵」だと説明した養子エージェントのナースの言葉を思い出した。だとしたら、バラカを手放した沙羅はどうなるのだろうか。

 優子はこの時初めて、沙羅が死に瀕しているような不吉さを感じた。

 二時間後、ようやくエレベーターから助け出された時は、二人とも冷え切っていた。部屋に戻った優子は、すぐにバラカを暖かい毛布でくるんでベットに寝かせた。

 テレビを点けた優子は声を失った。仙台平野を、黒い海水が怖ろしい速さで呑み込んでいた。

「何これ!」

 自分たちがエレベーターに閉じ込められて凍えている間、東北地方の沿岸部は巨大津波に襲われていたのだという。

 しかも、大地震の被害は甚大だった。東京の交通機関はすべて止まり、帰宅困難者が出ている。閉じ込められたとはいえ、二時間程度で部屋に戻れたのは幸いだった。もし、デパートに出掛けていたら、帰宅するのに五、六時間かけて歩かねばならないところだった。

 携帯電話が通じないので、家の固定電話でテレビ局に連絡をする。幸い佐竹が出た。

「特別番組のために、総動員体制になりました」

「すぐに行きたいけど、バラカを預ける算段ができないと思うのよね。できたら行くけど、無理かもしれない」

「タクシーも摑まらないから、みんな歩いて出社していますよ」

「歩くのはいいけど、バラカを預ける先が見付からないかもしれない」

「だったら無理しないでください」

 そう言われたが、出し抜かれるのが嫌な優子はぎりぎりと奥歯を噛んだ。テレビの画面には次々と信じられないような映像が映し出されている。

 ぼんやりとその映像を眺めているうちに、薄暗くなった寒い部屋でテレビに見入っている自分に気付いた。沙羅が引っ越したのは、確か沿岸部の町だったと思い出す。

 黒い水を見ているうちに、「不幸への道」という言葉が思い浮かんで、優子は激しく頭を振った。いや違う。沙羅はバラカをいとも簡単に手放したからよ。

 動悸が激しくなって、いても立ってもいられず、優子は部屋の中をうろうろと歩き回っていた。

桐野夏生の震災表現 その1

『バラカ』集英社、2016年2月発行

pp.217-221 「大震災」水獄

 洗面所に向かった時だった。いきなり足を掬われるように大きく床が揺れて、何ごとかと驚いた。地震だと認識するまで、何が何だかわからず、ただ怯えて洗面台に摑まって蹲っていた。

 揺れは収まるどころか、次第に激しくなった。洗面台の扉が勝手に開いて、化粧水の瓶や歯磨きコップが床に落ちた。家がギシギシと不気味な音を立てて軋んでいる。台所からは、食器が落ちて割れる音が響いてきた。やがて、パシッと大きな音がして、停電した。近所の家から、大きな悲鳴があがる。

 洗面所の照明も消えて、家の中が急に薄暗くなった。とりあえず揺れが収まるまでは、この狭い空間にいた方が安全だろう。外に飛び出したくなるほど怯えている自分を宥めながら、両腕で体を抱いていた。

 何分経ったのだろうか。ようやく長い揺れは収まったようだ。よくも家が壊れなかったものだ。ほっとして立ち上がる。表では、軋む戸を開ける音や、大きな声で誰かの名を呼んでいるのが聞こえるなどして騒然としていた。

 外に出て様子を訊こうと思ったが、知り合いもいないので、家の中でじっとしている。これほど大きな地震ならば、商店も開かないだろう。握り飯を作っておいてよかったと妙な安心をする。

 居間に行ってテレビを点けたが、停電したままで映らない。携帯電話も通じないし、パソコンは不通。キッチンでは、案の定、母親の洋食器がすべて下に落ちて割れていた。その惨状を見ると、気分が落ち込んだ。ガスも点かないから、このままでは凍死しかねなかった。

 やはり外に出た方がいいだろう。しかし、この街に着いたばかりで地理も何もわからないのだった。

 沙羅は、二階の寝室に戻って外を眺めた。表では、自転車に乗った男たちが慌ただしく駆けずり回っていた。

津波が来るぞ」

「早く逃げろ」

 つなみ?実感のない沙羅は、二階の窓から背伸びして海の方を眺めた。昨夕は気付かなかったが、漁船がたくさん港に停泊している。変わったことは何も起きていないように見えた。

 それでも不安に駆られて表に出た。ちょうど何ごとか叫びながら、市の広報車らしき車両が走り去った後だった。右隣の家では、老人が出て崩れたブロック塀を片付けている。

 避難中なのか、家族で連れ立って歩いて行く人もいたが、どの住人も比較的のんびりしているように見えた。

 ふと、左隣の二階からこちらを眺めている老女と目が合った。老女がガラス戸を開けて沙羅に訊ねた。

「あんたは川島さんのうちの人ですか?」

「はい」と、答える。

「東京の奥さん?」

「そうです。あのう、津波が来るんですか?」

「来るとは思うけど、どうかしら。そんなにたいしたことはないと思うわよ。二階にいれば大丈夫でしょ。避難するなら、公民館に行ったらどうですか」

「公民館はどこですか」

「ここから十五分くらい行ったところにあるの」

 頭痛がするのに十五分も歩いて行くのは面倒だった。津波が本当に来るのかどうかもわからない上に、ただ風評だけで、知らない街を右往左往するのは嫌だ。『二階にいれば大丈夫でしょ』。老女の言葉にすがった。

 台所の割れた食器を片付けていると、表で何か騒いでいる。箒を片手に出てみると、隣の老女を親戚らしき人が呼びに来ているのだった。

 どうしても動きたくないという老女を説き伏せて、無理やり車に乗せている。どうしたのだろう。それほど切迫しているのだろうか。

 ふと見ると、家の前の運河の水が急速に減っていた。底が露わになって、逃げ遅れた魚がぴちゃぴちゃ跳ねている。

 隣の老女を乗せた車が、沙羅の姿を見つけてUターンしかけたが、諦めたのか、またくるりと前を向き、一心に内陸に向かって走って行く。

 その時、波音ともつかない、不思議なざわめきが聞こえた。振り返ろうとした沙羅は驚いて立ち竦んだ。いきなりくるぶしまで黒い水に浸かって、足をとられそうになったのだ。

 これが津波

 慌てて、家に飛び込んで玄関ドアを閉めようとしたが、水の侵入の方が遥かに速かった。瞬く間に、一階に激流が入り込んで来る。バリバリと窓ガラスが割れる音がした。

 階段を駆け上がり、二階の寝室に飛び込む。窓の外を見て、思わず悲鳴を上げた。ほぼ二階の高さを船が行くのが見えたのだ。いや、船だけではない。車も看板も家も何もかもが沙羅の家目がけて押し寄せて来ていた。二階の窓ガラスが割れて海水が入って来る。

「助けて」

 沙羅がようやくその言葉を口にした時、川島との新居になるはずだった家は、土台からゆらりと動いて、沙羅をダブルベッドの上に載せたまま漂流を始めた。

 沙羅は自分では意識しない何ごとかを夢中で叫びながら、窓から外に出ようとした。家の中にいたら死んでしまう。ともかく、屋根に上るのだ。 

 裸足のままベランダに出た。フェンスに足を掛けて、屋根の軒を摑む。自分でも信じられない力が出て、何とか自力で屋根によじ上ることができた。その瞬間、屋根が電信柱に引っ掛かった。水の恐ろしい力で引き千切られた電線が飛んで来て、沙羅の右の頬と目の辺りを打った。手で触ると血が出ているようだが、痛みも感じない。沙羅は、瓦を摑んで屋根から振り落とされまいとした。

 あちこちで土煙が上がり、ところどころ火が出ていたが、海水は怖ろしい量で陸地に押し寄せ続けている。あらゆる物が、あたかも洗濯機の中の洗濯物のごとく、大量の海水に揉まれて、泥まみれになった。

 逃げ遅れたのか、運転席に人を乗せたまま軽自動車が流れて行く。乗っているのは、幼女を乗せた若い母親だった。幼女が窓ガラスを叩いて何かを叫んでいるが、押し寄せる海水と建物が壊れる音とに邪魔されて、何も聞こえなかった。沙羅と若い母親は、互いに絶望的な視線を合わせたがあ、それも瞬間で、あっという間に軽自動車は波間に消えて行った。

 沙羅を乗せた屋根は内陸に向かって流れていたが、突然、強い力で海に戻され始めた。このまま引き潮で沖に流されてしまうのだろうか。沙羅は屋根にしがみついて飛び移れる物を探したが、急に右目が痛みだしたため、諦めて屋根の上に俯せになったまま気を失った。

 再び気が付いたのは、夜だった。沙羅はガレキの山の中にいて、かつ真っ暗な洋上を漂流しているのだった。誰かが啜り泣いているのが聞こえた。犬の鳴き声もする。生き残っている人間や動物が、このガレキの山の中に閉じ込められているのだろう、自分のように。

 だが、沙羅の乗った屋根は波に打たれて、次第にバラバラになってきていた。辛うじて足を乗せている柱が海に沈みかけている。すでに足の感覚はないから寒さは感じなかった。

 まさか、こんな死に方をするとは思わなかった。これが私の運命だったんだね、ママ。話が途中になっちゃったね、優子。あたしたち、仲がいいんだか悪いんだか。一人増えれば一人減る。あたしの代わりに誰が増えるのかしら。沙羅は星空を見上げて、最後に少しだけ笑った。