ブログ トドの昼寝

札幌爺のたわごと

「教育」について内田樹さんが吠えている?

大学の法人化の弊害が次々と襲いかかってきている。その遠因の考察で説得力あるのが内田樹さんの次の記事だ。一部引用しておくと、

「マーケット」とか「ニーズ」とか「費用対効果」とか「組織マネジメント」とか「工程管理」とか「PDCAサイクルを回す」とかいう経営工学的な用語が教育についての論に繰り返し登場するようになったのは、90年代の半ばからである。歴史的に言えば、91年の「大学設置基準の大綱化」が起点となった。
 もう30年も前の教育行政の転換のことだから、若い人は何のことだか分からないだろう。まずそこから説明を始める。
「大綱化」というのは要するに「大枠だけ決めておくから、細かいところは、それぞれの大学で勝手にやってください」ということである。それがどうして「一大転換」であるかと言うと、それまで文部省は大学について、校地面積や教員数や教育プログラムについて、「箸の上げ下ろし」まで小うるさく規定していたからである。これは「護送船団方式」と呼ばれた。文部省が「戦艦隊」で、それに守られて、非武装の船舶である大学がしずしずと航海する・・・というイメージである。護送されている船舶には航路を選択したり、速度を変えたりする自由はないが、撃沈されるリスクは減ずる。
 それが変わった。戦艦がもう護送任務を行わないと宣言したのである。「これからは各自で好きな航路で進んでくれ」と告げて、船団を離れたのである。これから大学はそれぞれで教育プログラムを自由に決めてよい。もううるさい口出しはしない。その代わり、その個性的な教育プログラムが評価されず、志願者が激減して、大学が潰れても文部省は与り知らない、と。というこの方針もその後なし崩し的に転換されて、今の文科省(2001年から名前が変わった)が「口は出すが、責任は取らない」という「ないほうがまし」な省庁に劣化したことはご案内の通りであるが、それでも91年に最初の転換点があったという歴史的事実に変わりはない。
 どうして文部省がそのような劇的転換を図ったかというと、18歳人口の減少が始まったからである。大学数と大学定員は18歳人口の増大と進学率の上昇を追い風に増大し続けた。しかし、少子化でその勢いが止まった。市場がシュリンクすれば会社は倒産する。明治以来、教育行政の本務は「国民の就学機会を最大化する」ことであった学校数を増やしていれば誰からも文句が出なかった。それが「学校を減らす」という前代未聞のタスクを負託された。「増やす理屈」は熟知しているけれど、「減らす理屈」を文部官僚は知らなかった。困り果てた文部省がすがりついたのが「市場に丸投げ=自己責任論」であった

 

全文は内田さんのブログでどうぞ。

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