ブログ トドの昼寝

札幌爺のたわごと

「パチンコ」グローバル三幅対

韓国系女性による、「パチンコ」トリプティック(三幅対)完成

まずはアメリカで100万部突破したMin Jin Leeの Pachinko (2017)だ。下記のサンフランシスコ・クロニクルの跋文がズバリだろう。

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‟Beautiful…Lee’s sweeping four-generation saga of a Korean family is an extraordinary epic.”
– San Francisco Chronicle

Kindle でダウンロードして読み始めたら止まらなくなりそうだ(実際は老いと英語のせいでずっこけっぱなし)。

次は、北大経済学部の韓 載香(はん じゃひぇん)の2018年サントリー学芸賞受賞作品『パチンコ産業史ー周縁経済から巨大市場へ』(名古屋大学出版会、2018年)だ。

 その昔、韓国にパチンコを導入しようとしたが、あまりに熱中を誘うので危険と判断されて禁止されたことを思いだした。日本では巨大産業となり、コロナ禍で「何故営業自粛しないのか!」との批判も受けたが、潰れそうな気配はもはやない。一部では「日本人の資産を奪って半島に送っている」との指摘もあるが、日本だけで繁栄するギャンブル性強い娯楽産業だ。在日コリアンの女性経済学者が、正面きって取り上げ、今では受賞すれば大学がHPのニュースに取り上げるというサントリー学芸賞を取ったのだから、日本の学問的成熟として評価するべきなのだろう。麻雀は絶滅が危惧されるが、それを尻目にパチンコがなぜかくも日本で隆盛をきわめているのか、別の観点からの分析も待たれる。

最後は韓国系スイス人 Elisa Shua Dusapin の Les billes du Pachinko 、『パチンコ(の)玉』(私としては「の」は要らない)だ。Folio でも発売になっているのですぐに手に入ると思う。だだし、 kindle 版は EU 以外ではダウンロードできないので注意。

 

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Swissinfo の記事から引用しておこう。

8月に出版された2作目の「Les billes du Pachinko(仮題:パチンコの玉)」(ZOE出版)は初作に見劣りしない素晴らしい出来だ。無駄な飾りのないシンプルな文体、人間関係や根底に流れる西洋と東洋の文化の違いからくるすれ違いなどの細こまやかな観察がそこにある。1作目は韓国だったが、2作目の舞台は朝鮮戦争で1950年代に多くの韓国人が避難してきた日本だ。

 ミエコとハイジ

在日コリアンはその国籍を理由に労働市場から締め出されていた。彼らは娯楽を考え出した。垂直の板。玉。機械仕掛けのレバー」。デュサパンさんの小説の一節だ。この作品も出会いをモチーフにしているが、今度は幼い日本人の女の子ミエコと語り手クレールの物語だ。スイス人の学生クレールは、東京に住む韓国人の祖父母宅を夏の間だけ訪れている。

21世紀に入って、ヨーロッパー日本ーアメリカと、まさにグローバルな展開を見せる女性コレアンたちの活躍ぶりに注目していこう。

 

 

 

 

 

「討匪行」考(続)

森繁久弥とお登紀さん

加藤登紀子のデビューはシャンソンであったことには間違いはない。だが、日本のシャンソン愛好家たちはある意味自意識が高くなる傾向があった。赤塚不二夫の『おそ松くん』で「おフランスざーます」のセリフを吐くイヤミのキャラクターにそれが象徴されている。もう一段上の普遍性を備えなければと、彼女が見つけた水脈が「叙情」の日本的伝統であり、それを体現していたのが森繁久弥だったのではないだろうか。求めて満洲に赴き敗戦をそこでソ連軍侵攻の内に迎えた森繁の「討匪行」は、「日本人の叙情性」の核心に触れる歌であったように今聞いても思う。1970年11月リリースのアルバム『日本哀歌集ー知床旅情ー』には当然のごとく「討匪行」は入った。だがまだまだ70年である。69年の東大入試は中止となり、68年の秋の東大での全共闘反日共系全学連総決起集会には彼女は顔を出している。「軍歌」を歌うとは、、、という原則論的難詰が起きても当然であろう。以後再版では採用されなくなる。
そしてニューレフトが実践において激しく退潮しいくなか、中島みゆきが、シャンソンエスプリも内包しつつ、日本語の詩的革新者ともいえる「歌姫」として登場してきた。そのときお登紀さんはなにを感じただろうか。天沢退二郎「みゆき」萌えぶりはいまでも微笑ましく思い出される一方で、お登紀子さんの「討匪行」をなんども繰り返して聞く団塊世代は今なお多いような気がする。ただし、どちらも絶滅を待ちながらではあるが。森繁久弥の歌っているのを載せておこう。

https://youtu.be/GlYK7MG_EZU

『にっぽん三銃士』、気になる「討匪行」

講談社五木寛之小説全集全巻読破に挑戦中。昔のスピードはもうないので、のんびり行くしかない。現在『にっぽん三銃士』(第十五、十六巻)も終わりにかかってきた。スラップスティック小説だが、小林信彦筒井康隆への対抗意識はあっただろうか?終わり方に幻滅したという感想が多かったそうだが、振り出しに戻るという手法は頷けるし、帰還は新たなスパイラルを予感させるし、出発点も元のものではあり得ないだろう。

一郎は友人のH.T.や松田優作を彷彿とさせるし、読者は登場人物のそれぞれに自分の周囲の誰かを当てはめながら読み進めるだろう。そしてなによりも時代の空気が背景描写や歌にのせて見事に立ち上がってくる。当時読んだときも、哄笑を押さえながら頁をめくったが、距離を置いてもこみ上げる笑いは新鮮だ。

 

一つ気にかかったことがあるので記しておく。

下巻(第16巻)の79~80頁にかけて、戦中派の主人公の一人、黒田が歌う「討匪行」(八木沼丈夫作詩、藤原義江作曲)についてだ、私の数多い叔父たちの内にはシベリア抑留者だった人や満州で負傷した人そして戦死した方もいる。親族が本家に集まると酒盛りになり、やがて軍歌になったりするのだが、息子を失った祖母を気遣ってか、あまり放歌高唱とはならない。シベリア抑留を被った叔父が呟くように歌ったのがこの「討匪行」だったことを思いだした。

そして加藤登紀子もこれを歌っていたことを思いだして、ネットで調べてみると、1971年発売(ポリドール)の『日本哀歌集/知床旅情』が出てきた。買ってはいないが、記憶にはある。コロナの見舞金?で入手しようかとネットショップに入ってみると、再版が売りに出ていて、視聴リストもあった。だが「討匪行」はない!再版にあたって外したのだろうが、お登紀さんの個人的判断なのかどうか知りたいところではある。渥美清の歌ったのがあるので参考までに。

youtu.be

アラカルトセミナー/6月フランス語句会

M氏

 

すぎなどくだみ地下茎の深き闇

 

Des prêles et des herbes à poivre -    Prêles et herbes à poivre

 

Ses tiges souterraines                          Leurs tiges souterraines s’entremêlent

 

se cachent dans l’obscurité profonde            Dans l’obscurité profonde

 

 

 

翡翠の入射角には好みあり

 

Martins-pêcheurs                             Martins-pêcheurs

 

ont chaque goûts pour                    Chacun a son goût pour

 

ses angels d’incidence                     L’angle d’incidence

 

 

T氏

 

夕まぐれ 昭和のごとく 目刺し焼く

 

vers le soir                                         Dans le clair-obscur du soir

 

comme  a l’epoque de Showa          On grille des sardines séchées (mezashis)

 

grille des  “mezashi”                          Comme le temps de Showa

 

 (mezashi ; des sardines sechees)

 

 メイ・ストーム 

 

帚に乗って 魔女の来る

 

“ May Storm “           La sorcière vient

 

la sorciere vient                                     En montant sur le balai

 

en montent au balai                             Tempête de mai

 

( May Storm ; le tempete du printemps )

 

 

ワルツ

 

窓辺より ショパンの円舞曲 リラ揺れて

 

 par la fenetre                                        Par la fenêtre

 

entends  “ La Valse “ de Chopin            Une valse de Chopin court

 

le lilas tremble                                       Les lilas tremblent

 

          

 

 

Belle bouche氏

 

チューリップ庭の主役になりにけり

 

Les tuliputs deviennent               Les tulipes

le rôle principal                           Deviennent rois principals

dans le jardin                              Dans le jardin

 

春になり庭に咲くクロッカスやムスカリなども

綺麗ですが、やはりチューリップが一番華やかで

目立っている感じがします。

 

(菜の花やおぼろ月夜をリフレイン)

 

Quelles fleurs de coza                   Champs de colza

je ne chante qu’un refrain             On n’entend qu’un refrain

dans un champ                              Lune obscure 

 

 菜の花畑を見るとつい“菜の花畑に・・・”と

頭の中に歌が流れてきますが

知ってる歌詞は出だしだけでいつも同じフレーズばかり繰り返してます。

 

 

 夕焼けや百超え数えし露天風呂

 

Embrassement du soleil couchant     Embrassé par le soleil couchant

je compte plus de cent                      Je compte au-delà de cent

dans le bain en plein air                    Dans le bain en plein air

 

吹上温泉白銀荘に行くといつも露天風呂から十勝岳を赤く染める夕焼けを眺めて

長湯してます。昔は親にいくつ数えるまで湯槽に浸かっていなさいとか言われてましたが、百を超えても数え続ける事で長湯で有ることを表現して見ました。

 

S夫人

 

春鴎 追って海這う 小樽行き

 

Des goélands de printemps                                Le train pour Otaru

                                                                            Suit des goélands printaniers

Le train pour Otaru les suit le long de la mer.     Le long de la mer

 

 

 

春風や 星空と紛う 水面かな

 

La brise printanière                                                Une brise printanière

                                                                               La surface de l’eau scintille

La surface de l’eau scintille comme le ciel étoilé    Comme le ciel étoilé

 

 

 

方言を 取り戻しに行く 春休み

 

Les vacances de Pâques                             Les vacances de Pâques

 

Je retourne dans ma ville natale                 Je retourne à ma ville natale

 

pour reprendre le dialect                           Pour reprendre mon accent.

 

 

Cercle fleuri 氏

 

人住まぬ家にも氷柱生まれけり

     Des glaçons naissent                           Des glaçons

     Aussi dans la maison                           Poussent dans une maison

     Où personne n’habite plus                  Abandonnée

 

  1. 春灯し乳足りし児の寝顔かな

   Sous la lumière du printemps            Sous la lumière du printemps

      Le visage endormi du nourrisson       Un visage endormi du nourrisson

      Content du lai maternel                      Content du lolo

 

  1. 踊子や目深に被る笠の内

   Quel visage de la danseuse              Une danseuse

      Enfonçant un chapeau                     Quel bel visage sous le chapeau

      Dans la tête                                      Enfoncé sur le front

 

 

力作揃いでした。フランス語もかなり考えられているので、添削するのに苦労しました。まあ取りあえずは、自然に見える所作や景色に、でも驚きやひらめきを殺さずにということに意を用いました。

なぜ「いじめ」はなくならないのか?

FBで町村泰貴が極めて簡潔で核心をついたコメントをしている

日本社会の同調圧力の強さが公徳心の高さと混同されて、サンクションがないと言いながら陰湿な私的制裁に依存して全体目標に到達しようというのも、学校や会社でいじめがなくならないのと同根だ

これに「歴史に学ばない」「あったこともなかったことにする」正常化バイアスを加えると現在の日本が見えてくるだろう。人間の「心性」の基本はあまり変わらないから、敵を作ってとことん攻撃する「ヘイト」は日本が近代国家建設に邁進していたときに首都圏を襲った関東大震災でその極限の姿を見せた。しかしそれももう忘れている。恐怖と怒りに我を忘れたものたちの攻撃的発言の爆発に暗澹たる思いだ。

 

コロナ禍最悪予想

文藝春秋5月号

 

神谷秀樹

 そもそもなぜ企業や人々は借金しまくったのか。

 それはリーマン・ショック後、米国の連邦準備銀行FRB)、日銀はじめ世界の中央銀行がこぞって「バブル崩壊からの回復は次のバブルの形成で」という誤った金融政策を採用したからだ。

 公定歩合政策金利)をとことん下げ、市場に資金がありあまっているのに、量的緩和策で市場に出回る株や債権をむやみに買い上げ、さらに市場にお金を溢れさせた。

(中略)

 企業は借金を膨らませて、買収と自社株買い戻しに使った。そのおかげで実体経済が二%程度しか成長しないのに株価は二〇%以上も上がった。この数字の差がバブルそのものだと理解していい。

(中略)

 企業も個人も「借金麻薬」の患者だったのだ。企業や個人が金利をほとんど払わずにお金を借り、麻薬漬けとなっていたところにコロナ感染問題が起き、危機的状況に陥った、というのが世界経済の現状だ。

(中略)

 日本の状況も同じだ。すでにゼロ金利の日銀は金利で打つ手がない。黒田東彦総裁は、ETF(上場投資信託)の購入を倍増させる決断を下し、一九日には、一日あたりで過去最大の二千億強買い込んだ。だが、同じ日付のファイナンシャル・タイムス紙は一面で、「中央銀行介入への信頼が切れ、恐怖が市場を支配した」と報じた。

 安倍政権はオリンピック延期もあり、金融政策の効力に限度が見えることから、さらに財政支出を拡大するというが、日本の財政赤字はそもそも世界で突出して大きく、需要喚起策が従来どおりの公共事業なら、物理的に人も物も動けない感染拡大がつづく状況の中で実行すら危ぶまれる。

(中略)

インターネット・バブルの崩壊、リーマン・ショックも同様であくまで金融バブルの崩壊だった。

 今回のコロナショックはそれとは性質が全く異なる複合的な社会・経済危機ではるかに深刻だ。

 

『土の記』

日本人はなぜ歴史から学ばない?

これについて磯田道史朝日新聞で次のように述べている

なぜ日本人は歴史から学ばないのか。「考えたくないことは、起きないことにする」という習慣があるからです。「もし××だったら」という反実仮想の習慣を日本人は戦国時代以来、退化させてきました。前年と同じことが予定調和的に起きる緻密な水田耕作を続け、親の言うことを聞く人のDNAを受け継いできたからだと思います。

だが、この土にしがみついて来た日本が根底から崩れ始めている、それを作品として提起しているのが高村薫の『土の記』だ、里山などと美しく表現されてもてはやされている地域も共同体としては崩壊に瀕していることをじんわりとぞっとするほどの深みから見せてくれている。大和以来の田んぼ作りに対して科学主義的なアプローチをする農民が一族の行末を一人になっても見守り続けようとするのだが、最後はとんでもない水害の被災者になってしまう。なにもかもが無くなってしまうのだが、まるで何事もなかったかのように日本の日常は続いていく。

コロナ禍も過ぎてしまえばまた忘れ去られるのだろうか?