ブログ トドの昼寝

札幌爺のたわごと

2024年冬のフランス語句会

北海道もすでに春を迎えました。凍える北風に句会終了とともに家路を急いだのも懐かしく思われます。遅ればせながらここに数篇選んでご紹介します。

H. T.

   ボーナスの記載無き通帳見詰む

   Je fixe mes yeux 

     Sur mon livret de banque 

     Sans inscription de bonus 

 

   初日記なかなか書けぬ夜の続く

     La page blanche continue 

     Dans mon premier journal de l’an 

     Pendant quelques nuits 

 

   雪原の朝を切り裂く一両車

     Le train d’une voiture 

     Fend le matin 

     Du champ de neige 

こんな光景もやがて消えるのでしょう。JR北海道根室線富良野新得間が先日廃線になりました。「一両車」というのはフランス語でぴったりの表現があるのでしょうか?

 

 Y. M.  

 露天風呂のぼせて待つ初日の出

 Dans le bain en plein air

 J’attends le premier lever du soleil de l’année

 En ayant la tête qui tourne

 

 歌合戦初耳ばかりの大晦日

 La bataille de chansons

 Ce ne sont que des débutants

 Saint-Sylvestre

 

O. E. 

 車音消し雪降り積みて降り積みて

  Plus de bruits des autos

     La neige tombe fort en s’amoncelant partout

     Toujours plus fort

 

 広島に雪降りたるも傷消えず

     À Hiroshima

     Il neige pour ne pas réussir à

     Couvrir des blessures

 

参加予定だった Y. Y. さんは大雪にはばまれて急きょ欠席となられましたが、投句されていたので、参加した3人でそれらを検討しました。日本語の同音異義語遊び(ご本人は<二重含意の戯れ L’Amusement à double sens>と定義)をフランス語で伝える方法を探していらっしやるのですが、これはなかなか難しい課題です。一句全員で感心したものがありましたので掲載しておきます。

 

孫の手や生死(しやうじ)離るる心地して 

 

Les mains des petits-enfants

[OU Le gratte-dos]

En transcendant la vie et la mort   

Je me sens bien     

 

あるいは

 

Les mains des petits-enfants [OU Le gratte-dos] sur mon dos 

En transcendant la vie et la mort

Je me sens bien

      

拙い絵で申し訳ありません。孫の手(何人かの複数の手)がお祖父さんの背中に触れたり叩いたりするときの至福と一人で「孫の手」で背中を掻くときの快感がないまぜになった句ですね。

 

一番特急「北海」の思い出

 

特急「北海」が載った時刻表

 

 45年前のことになるが、身重の妻を残して、単身東北本線を青森まで。午前一時ころだったろうか、青函連絡船に乗り込み函館へ渡った。当時はまだ山線を走って小樽-札幌ー旭川とつなぐ栄光の一番特急「北海」が走っていて、それに乗って一路小樽へと向かった。ディーゼルエンジン特有のうなりに、さすが北海道と、妙な感慨を覚えたものだ。誰かが「熊が住む国とはいえ、人がいれば文化はあるさ」と送り出してくれたことを思い出しながら車窓をからぼんやりと景色を眺めていると気がついた。町と町の間には本当になにもないのだ。アメリカ西部劇のような世界なのかなと思っていると小樽に着いた。この印象は、その後、暴走族倶知安警察署襲撃事件によって確信に変わった。
 はや冬の気配の九月末、辞令をもらう前からとりかかった仕事が仏文の全国学会の準備だった。「講師」の肩書の入った名刺を刷ってもらい、小樽観光イラストマップ(蕎麦屋「藪半」の大将だった故小川原格氏に作っていただいたものだった)を携えて、昼は都通り商店街そして夜は花園界隈を寄付を募りながら歩き回った。たぶんその夜の姿を見た誰かが付けたのだろう、「夜の帝王」などとうれしくも恥ずかしいあだなを頂戴してしまった。昭和53年、小樽は運河問題で大揺れに揺れ、盛り場でも議論が盛んだった。今は富岡に建物が残る「すえおか」が花園の奥まったところにあり、藤井小樽商大学長*もたまに顔を出され、有名だった経済原論の講義さながらの「クイズ」で酩酊気味の新聞記者や町の名士たちを煙に巻いていた。今では死語となったキャバレーも、「モンパリ」や「現代」が健在だったし、「バイカウント」や建物は今も残る「八田屋」が高級クラブとして鳴らしていた時代だったが、その後の小樽花園町の衰亡ぶりはご存知のとおりである。
*1

*1:*藤井榮一 第6代小樽商科大学学長、東京商科大学(現一橋大学)出身でロンドン、スクール・オブ・エコノミックスで教えた経歴の持ち主。そのときの経験から講義では「クイズ」を出して学生の理解度を測ったという。

尾籠な話 その5 トイレのトンカチ

尾籠な話 その5 トイレのトンカチ

1960年代後半、ベ平連小田実と中間派小説家と呼ばれた五木寛之が行動派の作家として若者をリードしていたが、やはり「見る前に跳べ」のキャッチフレーズが示すとおり、バックパッカーの先達のような二人はそれぞれアメリカと東欧・北欧へとまさに飛び出して行き精力的にルポルタージュ風のアジテートを送り続けた。

だいたい金が無くなると皿洗いのバイトと相場が決まっていた感があった。どこだったが思い出せないのだが、五木寛之は、皿洗いは誰もができるのであっという間に取られてしまうけれども寒い北欧の冬で確実に稼げる仕事があると語っていた。トイレの仕事である。なぜトイレなのか訝しく思われる方が多いだろう。それを実感したのが、小樽の天狗山での出来事であった。

昭和58年に小樽に赴任したのだが、当時の小樽は斜陽の町と呼ばれながらもまだまだ17万程度の人口があり今とは隔世の感があった。二階建ての棟割り長屋の官舎に入った。トイレは水洗になっていたが、普通の便器ではなかった。日本式の便器で水の流れ落ちるところがそのまま深い下水道に繋がっていた。本州のような便器だと、冬になると途中の水溜まりの水が凍結してえらいことになるからだ。家の傍には鳥小屋にしては真っ黒な小さな物置があった。隣の人にたずねると「石炭小屋ですよ。薪炭費が出ると町の石炭屋に満杯にしてもらっておくんですよ」とのことだった。もちろんそれは後に暖房手当と改名されることになるし、どこもすでに石油ストーブになっていた。

そんな小樽で最初の友人と呼べる御仁が「今度天狗山の青年の家に遊びに来いよ」と誘ってくれた。よくこんな坂を上がるもんだと思われる急坂をバスが登ってたどり着いたところに天狗山スキー場入口があった。北海道の冬は日の暮れるのが早く不安になってきた。そこに見るからにスキーの猛者と見える女性が通りかかったのでユースホステルはどこかと尋ねた。「うちなんで、ついてきてください」と言われて雪の壁に挟まれた雪道を辿っていった。玄関を入ると「天狗山地獄のスキー特訓一週間!」の墨痕鮮やかな張り紙が目に飛び込んできた。「Mさん、お客さん」と案内してくれたお嬢さんが奥に声をかけると、「お〜、そのまま広間に来いよ!」と返事があって、スリッパに履き替えて廊下を進んだ。広間には到着したばかりの関西からの若者の一団が勢揃いして大おばさんにあれこれ質問しているところだった。関西からフェリーでやってきた若者たちがこれからのスキー特訓に夢を膨らましている中、グランマの風格たっぷりな天狗山ユースの指導者が諸注意を訓示していた。飲酒は公には禁じられているので、友人が月極で借りている個室に移って雑談していると、突然、この世の終わりかと思わせる女性の絶叫が聞こえた。「あっ、やったな」と友人が言った。なんのことか、と訝しんでいると、「トイレの大の方を覗くと分かるべや」とにべもない。何事が起きたのか知りたくなり広間に向かうと、グランマが「男子はあっちに行ってなさい」と厳命を下す。友人のセリフが気になったのでトイレに向かった。男子の個室に入ると、不思議なものが目に映った。片方が尖ったハンマーがぶら下がっていた。なんのためかと、見回しても訳が分からない。ふと便器を覗くと、きらりと何かが光った。目を凝らすと、そこには見事な逆氷柱が育っていた。そう、ハンマーはこの逆氷柱を破壊し間違っても氷柱が微妙な部分を突くことのないようにするために置かれていたのだ。
 思いもよらぬ方向から強烈な一撃を食らった女性は大丈夫だろうかと心配したが、そこはグランマの手慣れた対処で何事もなかったかのように静けさが戻っていた。友人の部屋に戻ると、ここまでは当分下水道は来ないから、本州からの客は金槌の意味が分からんまま便器を跨いで同じような体験をするだろうな、と彼は言った。そしてやおら窓を開けると屋根から垂れた氷柱をてで折り取るとウィスキーグラスに入れて私によこした。上からのは綺麗そのものだから心配するなとのことで、乾杯ししばらく歓談して家に帰った。
 翌日、天狗山スキー場にスキーを担いで行くと、関西娘たちは元気に指導員に率いられて転びまろびつしながら滑っていた。そうか、北欧の冬必ずありつける仕事というのは大きなレストランのトイレの逆氷柱割りの仕事だったのだと思い至ったのであった。だが、確実に見つかるというのはどういうことなのかという疑問は残った。で思いだしたのが、逆氷柱を尖ったハンマーで叩いたときの現象である。氷をアイスピックで砕いた経験のあるひとなら分かるだろう、細かい氷が飛び散るのだ。トイレでは飛び散るのは氷だけではない、顔に着いた場合、体温で解けてたちまちなんとはなく糞便の匂いが軽く漂い始めるのだ。北欧のレストランのトイレだといくら分厚いゴムの上っ張りを着ていいても、顔にかかるものは防げない。顔を洗っても洗っても洗いきれない部分に匂いはこびりついていくのだ。なるほど、シャワーも浴びれない人間にとってこれほど嫌な仕事はないだろう。今ではこのバイトは存在しなくなっていることは言うまでもないが、プーチン侵略戦争の犠牲になったウクライナでは公共インフラの破壊が激しく、冬の寒さを耐え忍ぶウクライナの人々に同情しつつも、思い出すのはこのトイレのトンカチのことであった。

尾籠な話その4− パリの「水!」

 私が尾籠な話にこだわるのは嗅覚と記憶の関係があまり重要視されていないことに危機を感じるからである。とりわけ日本では「無臭」が幅を効かせてアメニティーの基準であるかのように振る舞っている。だが無臭は危険である、経験のない匂いに遭遇したときに危機感や警戒感を持てるかどうか、記憶がなければ一瞬の判断を謝りかねない。無臭=快適がアメニティーを支配するならば、その最先端をいく大都会は極端な二局構造を内包し増大する破局のテンションを隠し続けなければならない。嗅覚が無意識的記憶と深く結びついていることは広く認知されるようになったが、われわれの存在自体を深いところで支えていることは間違いないだろう。隠して忘れるという脳の利己主義は無意識の大海を無限に深く大きくしていくのだろうか。

 さて、現在のパリの景観は十九世紀半ばに始まったセーヌ県知事オスマンの都市大改造に負うところが多い。唯一都市創成期から残っている道はサン・ジャック通りで、ブラタモリタモリが傾斜を探した界隈もパリ左岸のサン・ジャック通りを囲んだところであった。そこで紹介されていたのが「水!」という叫び声であった。その狭い通りは真ん中が窪んで下方へすなわちセーヌ川に向かって進んでいるが、この窪みは雨ばかりではなく両側の家の上層階から撒かれる「水」も集まり流れていくのである。

 どの映画だったか、印象に残ったシーンに馬車の御者がそれは深いフードの防水コートにすっぽりと身を包んで石畳の道を走っていくのがある。後にパリの歴史本などを漁っていると、この深いフードには別の意味があることが分かった。まさに「水!」が関わる問題であった。「馬車が欲しい!」というまさにパリのブルジョワたちの切実な叫びもここから明らかになる。アーケードのある大通りはそんなにない、少し外れれば両側から4、5階建ての家屋が迫ってきて時間にかまうことなく上から「水」が降ってくるのである。もちろん飲み水などではない、下水道の整備が進んでいない地区では瓶に水を張っておいて小用はもちろん大きいものもそこにしておき、だいたいは朝方に、窓から通りへ向け放下するのである。これを頭から被った日は厄日どころの騒ぎではない。ブラタモリではなぜ一階部分が引っ込んでいるかの理由の説明に逃げ場所として使うためであるとしていたが、まさにその通り。フランス語で車を指す言葉にヴォワチュールとオートと二つあることはご存じだろう。ヴォワチュールの方は有蓋四輪立て馬車からきているのだが、まさに「馬車が欲しい!」という切実な願いの因もここにある。屋根付きの馬車であれば堂々と降る「水」も気にすることなくパリの街を走り回ることができるからだ。御者はこの特権から排除される、下僕だからである。深いフードのコートの意味もここで明らかになるだろう。先日のイングランド即位式を見ていてふと思ったのは、「お忍びで王族が外出するときは馬車それとも歩き?」という疑問であった。百年早く産業革命に入っていた最先進国イギリスでは都市の環境整備もトップを走っていたようで、「歩き」によるお忍びも楽にできたことだろう。フランスにとって首都パリの都市整備はまさに国家の威信をかけた喫緊の課題だったのだ。ついでに言っておくと太陽王ルイ十四世もパリの宮殿が大嫌いであり、それがヴェルサイユ宮造営の理由のひとつであることはよく知られている。パリは町自体が臭かったのである。

 今ではサン・ジャック通りと並行してパリの南北を貫くサン・ミシェル大通りもパリ大改造計画前まではパッとしない通りだった。サン・ジェルマン大通りも当然未整備であった。なんと言っても私にとってパリの通りといえばサン・ジャック通りである。

尾籠な話その3ートルコ式トイレ

 もう四十年以上も前のパリでの話。大先生の一人から頼まれパリ在住の老哲学者のご機嫌伺いに行ったときのこと。お住まいが当時でもかなり治安が悪化していた18区で、電話で「昼間でも決して裏路地に入るな、まっすぐアパルトマンまで来なさい」との忠告を受けた。地下鉄の出口を出たときに急に催したので我慢できず大通りに面したカフェに入ってトイレを借りた。薄汚れた個室の戸を開けると、ない、無いのだ便器が!見ると正方形になったコンクリートの受け皿の中央に靴の形の台がある。ここに靴を乗せて用をたせということかと納得したが水槽も見えなければトイレットペーパーも無い、あるのは天井から下がった頑丈そうな紐だけである。さいわいティッシュを持っていたのでしゃがんで用を足した。台の間にこんもりしたものにティッシュを掛け、さてどうしたものかとじっと紐を見つめた。これを引けば水が流れて受け皿の右隅にある排水口とおぼしきところへ運ぶのだろうと考えた。
 紐を引くと、下の方からまるで火山の噴火の直前のような鳴動がしてきたので、これはこのまま居るとまずい、と思いドアを開け外へ出た。しばらく故障しかかった洗濯機が攪拌しているような騒音がしたが、やがて静かになった。ドアを開けるときれいにはなっているのだが、壁のかなりの部分まで水が飛び跳ねた跡があった。よかった、と胸を撫で下ろして目的地へと向かった。
 老先生のお宅についてひとしきり挨拶やらを交わしたあとで、件のトイレの話をしたところ、「それがトルコ式トイレだよ」とおっしゃられた。「この界隈では当たり前だね。トイレ係は必要ないし、清掃はときどき見て改めて水を流せばいいだけだからね」と仰りながら薄笑いを浮かべられた。皆さん向こうの映画で男女がトイレの個室でことに及ぶシーンをなんどかご覧になったことがおありだろう。そう、便器を備えた個室はホテル代わりに使われるのだ。風紀の乱れは甚だしいし、諍いが起きると血の雨も降りかねない。水を貯めるタンクが拳銃を隠すのに使われることはギャング映画で散々見てきた。実に、トルコ式トイレとは設置した店にとっては極めて合理的なものなのだ。
 ちなみに当時のカフェの壁にかけてあった営業許可証には「通行人の水とトイレの要求に対しては無償でこれを提供しなくてはならない」と書かれてあった。このときばかりは私もこの条項をありがたく利用させてもらった。

尾籠な話ーその2

 これも大昔の話。家から小学校までがほぼ見通せた。それほど広島の南観音新町には何もなかった。実は干拓地の南端には三菱重工の巨大工場群があってその北側には社宅が拡がっていた。その社宅街と小学校の間に畑が拡がっていたのだ。学校はご承知のとおりベビーブーマーで溢れかえっていて、新入生や二年生にはとんでもない巨人国に紛れ込んだホビットの気分だった。今思えば不思議なのだが、田んぼが学校から南を向いて右側に少しだけで本当にほとんどが畑だった。

 今回の話はこの畑にあった肥溜め(野壺)だ。夏休み前の下校時、ふと見上げるとギンヤンマが遊弋しているではないか。昆虫少年候補生だった二人は夢中になって追いかけはじめた。もちろん捕まえることはできない。ただ、うっかりして畑に入り込んでしまったのが運の尽き。肥桶を天秤棒で担いで柄杓で畝の間にまいていたお百姓さんに見つかってしまった。桶を置いて柄杓を振り回しながら血相を変えてこちらに走ってきた。社宅まで逃げ切ればと必死で二人は走った。それほど畑の中ではなかったが、まっすぐ畝の中を南に走った先に、こんもりとお好み焼きのような膨らみ方をした薄茶色の塊が目に入った。先を走っていた僕はその塊の真ん中辺りを踏んで畑を出た。ところが「うわーっ!」という声が後ろでしたので振り返ると、友達が塊の縁で溺れかかっていた。追いかけてきたお百姓さんもこれは大変と思ったのか、持っていた柄杓を投げ捨て、両手を伸ばして友人を抱きかかえて引き上げようとしていた。僕も見捨てて逃げるわけにもいかず手伝った。溺れかかった友人は悲惨な状態なのはもちろん、お百姓さんと僕も両手から胸の辺りにかけてべったりと十分発酵した糞便まみれになってしまった。「どうすりゃええかいの」とお百姓さん。「このまま家に帰ったらしばかれる」、「いやばっちいけ〜しばいたりはせんじゃろう」、「まああそこの小川でとりあえずフルチンになって着とるもんを洗うんじゃの。」銀ヤンマに見とれてつい畑に入ったと知ったお百姓さんは急に優しい顔になって、「あそこにお宮があるじゃろ、あそこの池は水がしっかりあるけえ、適当に洗うたらそっちで濯ぐんで」と言うと仕事に戻って行った。

 友人のランドセルの中身がどうなったのか心配しながら、お宮の池で服と運動靴を濯い、ランドセルは草をまとめて水に濡らしたものでゴシゴシと拭ってから家に帰った。その後の騒ぎはご想像にお任せする。「学校で言われんように」という二人の願いが空しかったことは言うまでもない。鼻をつまみながら「野壺落ち!」としばらく囃し立てられるのを我慢しなくてはならなかった。

 銀ヤンマ 追いてはまりし 野壺かな